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90年代 洋楽ロック 『名盤10枚』


アメリカではグランジ・オルタナティブバンドがチャートを塗り替え、イギリスではブリットポップ戦争なるものまで巻き起こり、良くも悪くもロックシーンが一番熱かった90年代。今では物置でホコリをかぶった山のような洋楽CDも懐かしい青春の思い出です。その中から個人的にも良いと思える、代表的な90年代 洋楽ロックアルバムの名盤10枚を選んでみました。

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 ニルヴァーナ/ネヴァーマインド(1991)

 

nevermind_180年代の終わり頃、地元シアトルでインディーズバンドとして活動していたニルヴァーナは、ハードロックとパンクを融合させた、いわゆるグランジバンドの有望株の一つとしてメジャーからも注目されるようになります。 地元レーベルのサブポップからリリースした1stアルバムの「ブリーチ」で、ある程度の出応えを掴んだニルヴァーナはメジャーのゲフィンレコードと契約を結び、移籍後の第一弾として、後に90年代ロック史上もっとも有名になってしまう、この「ネヴァーマインド」を世に放ちます。

フロントマンのカート・コバーンは、元々アンダーグラウンド志向でしたが、メジャーに移籍したことでそれまでのヘヴィーでダークなサウンドの中にもポップな要素を意識して曲を作ります。 更にプロデューサーのブッチ・ヴィグ、ミキサーのアンディ・ウォレスらによってインディーズ時代のガレージ臭い荒っぽい音とは違い、クリアでコマーシャルな音に仕上げられてしまいます。 カートの作り出す印象的なメロディーとラウドで陰鬱な音楽は、80年代的な派手な産業ロックバンドが台頭していたシーンに大きなインパクトを与え、それまでのロックにフラストレーションを感じ始めていた若者たちが一斉に共感し、そのサウンドに熱狂し始めます。

また、ニルヴァーナのブレイクによって、それまで陽の目を浴びていなかったオルタナティブなインディーズバンドが次々とメジャー契約を結び、時代のトレンドとなり、逆にそれまで威勢をふるっていたハードロック/ヘヴィーメタル(HR/HM)バンドは表舞台から消えていくことになります。(俗に言うグランジ・オルタナティブムーブメント)

しかし、このアルバムのメガヒットによりニルヴァーナは時代を象徴するロックバンドに、そしてカートは新たなる時代のロックスターとして強烈なスポットライトで照らされるようになり、一番嫌っていた商業的なバンドで見られる様になってしまいます。 その反発心から3rdアルバムでは、ピクシーズ等のプロデュースを手掛けたスティーヴ・アルビニによる原点回帰したアングラ的な作品「イン・ユーテロ」をリリースしますが、その反抗的でネガティブな精神が若者たちに更なる共感を与えてしまい、シアトルのインディーズ連中からはニルヴァーナはセルアウトしたと揶揄されるようになってしまいます。

売れないときはカート自身が願っていた”成功”だったはずなのですが、最後には自分を取り巻く状況に嫌気がさし、ドラッグに溺れ、苦悩し続け、そして自ら命を絶ってしまいます・・同時に掃いて捨てるほど現れた模倣的なグランジバンドも90年代後半には徐々に廃れ、消え去り、グランジムーブメントも終焉を迎えます。

結果的に、カートが死んでしまったことで、カリスマ的な存在はより大きくなり、伝説的なミュージシャンになってしまいます。 ジョニー・ロットンよりも大きなロックの革命を起こす事ができたかもしれませんが、最後はシド・ヴィシャス的な破滅型の生き方のまま人生を終える事を、本人が望んでしまうようになったのかもしれません。 遺書で残した「錆びついてしまうよりも、燃え尽きたい」という言葉からもその意味が窺い知れます。

 Music video by Nirvana performing Lithium. (C) 1991 Geffen Records

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ビースティー・ボーイズ/チェック・ユア・ヘッド(1992)

 

IMG_0001_1マイクD、キング・アドロック、MCA の三人で編成されたグループで、当初はハードコアやパンク主体のバンドでしたが、デフ・ジャム創始者の一人である敏腕プロデューサー、リック・ルービンに出会い、またその頃メンバーがヒップホップに興味を持ち始めていたこともあって、あっさりとバンドスタイルを転身します。

そして、ラップとハードロックを融合させたリック・ルービン プロデュースのデビューアルバム「ライセンス・トゥ・イル」をリリースすると、それがいきなりの大ヒットを記録します。 92年には自身のレーベル「グランドロイヤル」を設立し、音楽だけでなく雑誌を刊行したり、新たなストリートファッションを発信するなど多岐に渡ってサブカルチャーのイニシアチブな存在になり、数々のロックフェスでもヘッドライナーを務め上げ、また、メンバーの一人であるMCAことアダム・ヤウクはチベットの独立を支持・支援するためのチベッタン・フリーダム・コンサートを企画・主催し、政治的な活動も行っていきます。 その後もグラミー賞を3度も受賞するなどビースティー・ボーイズはロック界のスターダムを一気に駆け上がって行きました。

しかし、そんなビースティーズですが、初期の頃はニューヨークの悪ガキ三人組がとにかく好き放題にバカをやっているだけの、ろくでもない連中という印象でした。 それだけに、そこからのバンドの成長と進化が、ある意味とても面白かったりもします。 それは色々な音楽に対する持ち前の寛容なスタンスと独自性を打ち出した楽曲センス、インスピレーションを三人が上手く時代にフィットさせ続けた結果だと思います。

ジャズやファンク、ハードコア、パンクなど何でもありに放り込みつつもカッコ良くまとめてしまう唯一無二のバンドで、ミクスチャーロック(和製英語)とも言われてしまう、枠にとらわれないそのスタイルはハンパなくクールで、ジャンルなんかどうでもよくて、カッコよければそれで良し、と言わせてしまう凄さがありました。

この3rdアルバムの「チェック・ユア・ヘッド」ではメンバーが再び楽器を持ち、更にサンプリングを多用し、第四のメンバー的存在の鍵盤奏者マニー・マークの参加もあって、ビースティーズのフリースタイルな音楽性が存分に発揮されたアルバムだと思います。

しかし、メンバーの一人である、MCAが2012年5月に癌で亡くなってしまいます。 マイクDは「MCAが死んでしまってから、俺たちはもうツアーをすることが出来なくなった。新しい音楽も作れない」と、事実上の解散ともとれる発言をしており、ビースティーズファンとしては、とても残念でなりません。 それぞれのメンバーがかけがえのない役割をバランス良く果たしてきたグループだっただけに、その死が悔やまれます。

 Music video by Beastie Boys performing So What Cha Want. (C) 1992 Capitol Records

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オアシス/デフィニットリー・メイビー(1994)

 

oasis_3マンチェスター出身のギャラガー兄弟の二人を中心にしたバンドで90年代のブリティッシュロックを牽引し続けてきたオアシス。

その音楽性は、まんまビートルズを彷彿とさせるものですが、驚異のメロディーメーカーである兄ノエル・ギャラガーによって生み出された楽曲はどれも素晴らしく、この1stアルバムで既に貫禄すら感じさせられてしまいます。

デビューしたてのころから「俺たちはスターになって金儲けして、ドラッグも女も全部手に入れるんだ」と言い放ち、「ビートルズを超える」とまで公言します。 あまりにも分かりやすく、傲慢なスタンスですが、そのスターダムに抵抗することのない態度、そしてビッグマウスで終わらず、それを実現して行く姿は(ビートルズを超えたかどうかは、別として)逆に新鮮で、エキサイティングであることこそロックンロールの本質だと思わせてくれます。

しかし、あまりにも攻撃的過ぎて、問題を起こしまくり、ステージ上での兄弟喧嘩は当たり前、気に入らないバンドは名指しで批判し、なかでもライバルとしていたブリットポップの雄、ブラーに対しては敵意をむき出しに口撃をします。 特に弟のリアムは素行の悪さが有名で、泥酔状態でステージに立ち、ノエルに怒られてはステージを放り出して帰ることもしばしば。 売れてからも窃盗、暴行事件を起こすなど、まさにロックを地でいくような男で、それらが原因となり幾度となく解散危機に陥ります。 どうにかこうにか危機を回避しながら2009年まで活動を続けますが、最後はノエル脱退というかたちでついに解散をします。

壮大さを増した2ndアルバムの「モーニング・グローリー」も不朽の名作なのですが、まだ荒削りで気怠さが残る1stのほうが、正統派にまとまっていない分、オアシスのキャラクターが、より伝わってくる作品だと思います。 下手な説明は一切不要で、とにかく聴けばわかる名盤です。

付け加えて言うならば「ノエルの曲はどれも素晴らしく」と前述しましたが、それは2ndまでの話しであって、3rdアルバム以降は、単に焼き直しただけの退屈な印象でしかなく、その後のオアシスはゴシップで世間を騒がせることは多くても、作品としての評価は下降線をたどり、それと伴にブリットポップムーブメントも徐々に終息へと向かって行くことになります。

 Music video by Oasis performing Cigaretts & Alcohol. (C) 1994 BMG Records

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ブラー/パーク・ライフ(1994)

 

IMG_0003_1 オアシスが世に出てくる以前からキャリアを積んでいたブラーは、そのルックスとファッションセンスの良さからアイドル的な人気を誇り、なかでも生粋のロンドンっ子であるボーカルのデーモン・アルバーンはブリット・ポップの顔として90年代のUKシーンに図らずも君臨することになります。

初期の頃のブラーはシューゲーザーやグラムの匂いがする、アートスクール出のインテリジェンス感が強いバンドでしたが、1stアルバムに収めてある「ゼアズ・ノー・アザー・ウェイ」あたりを聴くだけで、既に彼等が只者ではないバンドだということがわかります。

この3rdアルバム「パーク・ライフ」からデーモンの類い稀なソングライティング能力が更に開花し、単なるポップソングではない幅のある音楽性は、どこか人を喰ったかのような捻くれたメロディーで、不思議と物悲しさも感じさせられます。 イギリスの生活文化をシニカルに歌う、その普遍のポップセンスはまさに天才的であり、それに加えてグレアムのとぼけたようでキレのあるギターリフや、バンド全体の絶妙なハーモニーがとても心地良く響き渡り、ブラーは他のブリットポップバンドとは明らかに一線を画した存在になっていきます。 ブラーの人気はロンドンだけに収まらず、パークライフのヒットで一気にイギリスを代表する国民的なバンドになります。

しかし、少し遅れてから突如として現れたマンチェスターのロック・フーリガンことオアシスによって、それまでの立場が一変していきます。 労働者階級出身で常にスキャンダラスなオアシスと、中産階級出身で都会的に洗練されたブラーは見事に対比しており、両者はマスコミに上手く煽られるかたちで対立状態になります。 同日にリリースされたシングル対決ではブラーが勝利したものの、その後のアルバムセールスでは、オアシスの「モーニング・グローリー」に圧倒的な差をつけられ、結果的にはオアシスの王道ロックがブラーの音楽を力でねじ伏せます。

打ちのめされてしまったブラーでしたが、それまでのポップソングから脱却するように、ローファイ路線へと上手く切り換え、成果を出せていなかったアメリカでも一定の成功を収めるなど、新たなスタイルを確立していきます。

オアシスは何かとビートルズに例えられる事が多かったのですが、バリエーション豊かで曲作りにとらわれることなく、常に革新をもたらし続けてきたブラーのほうが、オアシスよりも遥かにビートルズに近かったように思います。

 Music video by Blur performing Girls&Boys. (C) 1994 EMI Records

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レッド・ホット・チリ・ペッパーズ/ブラッド・シュガー・セックス・マジック(1991)

 

IMG_0004_1 どこまでもファンキーで、いかにも西海岸出身といった感じの、パワフルで陽気なこのグループ。 しかし、そんなレッド・ホット・チリ・ペッパーズ(以下、レッチリ)ですが、現在に至るまでには数々の苦難がありました。

83年にロサンゼルスで結成され、ソウルやR&Bといった黒人音楽からの影響とファンクとハードロックやパンクロックを混ぜ合わせた音楽スタイルで、地元を中心に活動を始めて人気を博し、程なくしてメジャーのEMIと契約を結び、3枚のアルバムをリリースします。 派手なパフォーマンスも話題になり、レッチリは少しずつ知名度とその音楽性を高めていきます。

しかしメンバーから敬愛されバンドの骨格を担っていたギタリストのヒレル・スロヴァグがヘロイン過剰摂取によるオーバードーズで亡くなってしまい、そのショックからドラムのジャック・アイアンズも脱退してしまいます。(当時、ボーカルのアンソニー・キーディスもヘロイン中毒でしたが、ヒレルの死をきっかけに、なんとか薬物から足を洗います。)

突如、二人のメンバーを失い、アンソニーとベースのフリーも失意のどん底に落ちるほどのショックを受けますが、ドラマーのチャド・スミスとギタリストのジョン・フルシアンテを新たなメンバーに迎えることで、レッチリは再出発をし、復活を果たします。 チャドのパワフルなドラムに加え、ヒレルの魂を受け継いだジョンの乾いたカッティングは徐々に鋭さを増していき、それまでのヒットに恵まれない下積みの80年代から脱し、91年リリースの、この「ブラッド・シュガー・セックス・マジック」で大きな成功を収めます。

これまでにないグルーヴ感を放ち、4人のリズムが絶妙に融合したレッチリはオルタナティブムーブメントの波にも乗り、アメリカを代表するロックバンドとして黄金期を迎えます。 しかし、精神的疲労からジョンが世界ツアーの来日時に突如、帰国してしまい、そのまま脱退してしまいます。 後任としてフリーの友人でもあったジェーンズ・アディクションのデイヴ・ナヴァロが加入し、よりヘヴィーさを増したアルバム「ワン・ホット・ミニット」を発表しますが、デイヴも音楽の方向性の違いから三年あまりで脱退してしまいます。 またしても危機に直面してしまいますが、脱退後、薬物中毒に陥っていたジョンをアンソニーとフリーが再び説得をし、バンドへと復帰させレッチリは見事に完全復活をします。 鍛え上げられたレッチリの鋼鉄ファンクはより貫禄を帯びていき、集大成とも言えるアルバム「カリフォルニケイション」でキャリア最大のセールスを記録します。

その後の作品では、悟りの境地に達したかのごとく落ち着いた雰囲気を漂わせた方向性に変化していき、レッチリらしさは影を潜めてしまいますが、30年にも及ぶキャリアの中で度重なる苦難を乗り越え成長した彼らは更なるステージへと進化を続けています。

 Music video by Red Hot Chili Peppers performing Give It Away. (C) 1991 Warner Bros Records

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ウィーザー/ウィーザー(1994)

 

Weezer_1通称ブルーアルバムと言われるウィーザーの1stアルバム。 お世辞にもカッコイイとは言えない四人組が、ただ突っ立っているだけの地味なジャケットなのですが、その冴えないルックスからは想像がつかないほどの魅力を持ったバンドで、ビジュアルと音楽性のギャップでとたんに心を奪われてしまいます。

コネチカットの片田舎からロックスターを夢見てLAに出てきたリヴァース・クオモ(vo/g)は、同じ夢を抱いてLAにやって来た三人の若者、ブライアン・ベル(g)、マット・シャープ(b)、パトリック・ウィルソン(ds)と意気投合しバンド、ウィーザーを結成します。

バンドスタイルはウィーザー節とも言えるもので、純朴かつ哀愁が漂う切ないマイナー調のメロディーから、一変 ハードなロックサウンドへと転調し、聴き手を一気に高揚させてくれます。 リヴァースはガンズ・アンド・ローゼスやピクシーズなどからの影響を受けており、LAメタル直系のラウドなサウンドと、ピクシーズ的な強弱のある音の展開がウィーザーの作品にも反映されています。

当時90年代初頭のグランジ・オルタナティブムーブメントの中で淘汰されていたHR/HMの代表格でもあるガンズが憧れの存在だと飾らずに素直に言ってしまうところが実にリヴァースらしいのですが、そのピュアな人間性が音楽にもしっかりと表れており、彼の作り出す曲は泣き虫ロックとも称されました。 「LAに出て来たリヴァース青年はすぐに挫折、おまけに彼女にフラれて大きなショックを受け、その傷を癒すために曲を書き、詩を通して自分の思いを素直に表現することでリヴァース青年はより強くなっていきます。」こんな乙女チックな世界で生きている男からはマッチョなロックイズムなど微塵も感じられそうもないのですが、ひとたびステージに立つと、爽快なギターサウンドを響かせ、泣きメロ全開でストレートなロックを爆発させます。

ウィーザーはパワーポップバンドとしてカテゴライズされていますが、良質なポップサウンドに下手くそなコーラスがユーモラスにはまる実に不思議な味わいを持ったバンドで、90年代の内省的で鬱屈したアメリカのロックシーンにちょっと変わった風を吹き込んでくれました。 このアルバムは累計300万枚を超えるヒットを記録し、ビジュアル抜きで単純にその実力を評価され、一見いけてないけど、実は最高にいけてる「ダサカッコイイ」連中としてオタク系な男たちに勇気と希望を与え、限りなくピュアなロックバンドとして今もなお愛されています。

 Music video by Weezer performing Undone The Sweater Song.(C) 1994 Geffen Records

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スマッシング・パンプキンズ/サイアミーズ・ドリーム(1993)

 

The-Smashing_190年代のロックミュージックにおいてスマッシング・パンプキンズ(以下、スマパン)は、最も重要なバンドの一つであったことは間違いなく、既成の音楽に代わる変種=オルタナティブなロックバンドの先駆け的な存在でした。

88年にシカゴで結成されたスマパンは、ハードロックにオリジナリティを持たせた音楽性を展開し、どこかサイケデリックな雰囲気を漂わせた異質なバンドとしてシーンに登場し、メジャーデビューをします。 キャロラインレコードから1stアルバムの「ギッシュ」をリリースし、CMJ(大学製作ラジオ・チャート)で1位になるなどローカルな活動が実を結び、多くのファンを獲得していきます。 しかし不幸なことに同時期にデビューしたニルヴァーナが先にブレイクし、ロック史上最大のクーデターを起こしてしまった事で、スマパンはグランジ・オルタナムーブメントに乗っかった二番煎じ的なバンドという扱いしかされず、業界からは辛辣な評価を下されてしまいます。

歪んだレッテルを貼られてしまい、その状況に困惑しながらもビリー・コーガン(vo/g)は珠玉のメロディを生み出していきます。(ビリーは事実、ニルヴァーナのブレイクに刺激を受けており、「バンドとして僕たちも負けていないんじゃないか、もしかしたら自分にもあれよりいい曲が書けるんじゃないかと思って曲作りに精を出した」と後に語っています。)

そして、満を持して発表したこの2ndアルバム「サイアミーズ・ドリーム」でスマパンはギターロックの頂点に達します。 その緻密に構成された作品はメランコリックでありながらもメルヘンチックな世界を醸し出しており、途轍もなくノイジーでラウドな曲からストリングス・アレンジを用いた美しい曲まで、独特の振り幅を持たせた変幻自在なロック組曲で、聴く者のアドレナリンを全開放出させます。

メンバーの個性もより際立ち、バンドの核であるビリーのまとわりつくような声に合わせ、日系三世のジェームス・イハがディストーションを効かせたギターリフを繰り返し、ジミー・チャンバレンは手数豊富で変態的とも言えるドラミングで轟音を鳴り響かせます。 そして、紅一点 寡黙にベースを弾き続ける妖艶なダーシーがバンドに華を添え、この四人が織りなす煌びやかなカラーは、他のオルタナバンドには出せないものとなります。

この作品で、正当に評価を高めたスマパンはニルヴァーナなきアメリカンロックの旗手として期待をかけられるようになり、ビリーは強いプレッシャーを感じながらも、よりスケールアップさせた3rdアルバム「メランコリー ~ 」で見事に期待に応えてみせ、その地位を確固たるものとします。 しかしビリーの完璧主義なワンマンさやメンバーのドラッグ問題などもありバンドは2000年に解散してしまいます。 その後、ビリーだけがスマパン名義での活動を続け、バンド再結成の噂も幾度となく浮上しますが、いまだ砕け散ったカボチャの完全復活は実現されていません。

 Music video by Smashing Pumpkins performing Rocket.(C) 1993 Virgin Records

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グリーン・デイ/ドゥーキー(1994)

 

greenday_1グリーン・デイの奏でるパンクはどこまでもノリが良く、90年代前半からアメリカで台頭したニルヴァーナや、パール・ジャムなどの陰鬱なグランジとは違った、とてもわかりやすいポップパンクで、オフスプリング等のメロコアと共にブームを巻き起こし、パンクというジャンルを改めてメインストリームに押し上げてくれました。

グランジ・オルタナムーブメント以降、タイミング的にこの手のポップパンクも確実にその恩恵を受け、注目を集めるようになります。 シンプルなコード進行だけでフックの効いたメロディアスな曲を作り出し、8ビートに乗せて軽快に鳴らす彼らのドライブ感溢れるサウンドは、聴くだけで直ぐに気分を発散でき、単純に楽しめる音楽として絶大なる人気を獲得していき、このメジャーデビューアルバム「ドゥーキー」は爆発的なセールスを記録します。 そしてグリーン・デイは瞬く間にアメリカを代表するパンクバンドとして広く知られるようになり、一躍スターダムにのし上がります。

ポップパンクやメロコアのベースはあくまでもパンクなのですが、ファッションやその精神に重要性はあまり無く、何よりもメロディが主体のスタンスで、良い曲をただひたすらハッピーに演奏するというものでした。 それは地元バークレーで活動していたインディーズ時代から一貫しており、彼らの最大の武器で持ち味でもありました。 しかし、同じパンクでもセックス・ピストルズやストゥージズなどの粗暴で衝動的な70年代のパンクとはイメージがかけ離れており、グリーン・デイの言わば売れたもん勝ちのパンクはアンダーグラウンド志向やパンクのルーツに造詣が深い人間から何かと反感を買い、特にローファイな連中からはやっかみ半分に単なる商業パンクだと批判の対象にされました。

確かに、グリーン・デイの佇まいからはパンクの精神性や音楽としての革新性はあまり感じられず、かつてのパンクと一括りにされることには違和感を持ってしまいます。 しかし、作品自体が質の高いものであることには何ら変わりはなく、ボーカルのビリー・ジョーのソングライティング術によって作られた曲は他の亜流バンドには決して真似することのできない奥深さがあり、その引き出しの多さからは様々な音楽の素養が感じられます。 そもそもパンクには明確な定義はなく、ロックにおいてジャンルを懲り固めて批判すること自体ナンセンスであり、本人たちも周りの批判をどこ吹く風といった調子で走り続け、結果的にこの作品は全世界で2,000万枚もの売上を記録し、その後の作品でも大きなセールスをあげていきます。

グリーン・デイの音楽が幅広いロックファンから愛され、時代に受け入れられたことは事実であり、何よりその評価は彼等自身が大きな実績で証明してくれたと思います。

 Music video by Green Day performing Long View. (C) 1994 Warner Bros Records

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レディオヘッド/OKコンピューター(1997)

 

IMG_0009_1ニルヴァーナが引き起こしたロックの地殻変動による余波は予想以上に大きく、アメリカでは90年代後半になってもグランジ・オルタナティブ色の強いバンドが依然として溢れ返るマンネリな状態となり、ベック等の登場があったにせよ、全体としては明らかな停滞期に陥り始め、転換期が望まれながらも打開できない時期が長く続きます。

一方、イギリスでもブラーとオアシスによるブリットポップ戦争に端を発した狂騒がもたらしたUKポップバブルが最盛期となり、第二のブラー、オアシスに続けとばかりにレーベル各社による一大プロモーションが展開され、数多くのブリットポップバンドが登場しますが、皆で唄える大衆性を持ったポピュラー音楽を生み出せるバンドは現れず、結局のところブラー、オアシス頼みな現状が続き、流行りはロック的な要素をもったダンスミュージックに取って代わられてしまい、ブリットポップは単なるブームとして終りを迎えようとします。

そんな混迷した97年に発表されたレディオヘッドによる3rdアルバム「OKコンピューター」はロックに一筋の光明を差し込んでくれる作品となります。

レディオヘッドはオックスフォードを拠点に置いた5人の若者で結成され、92年にメジャーデビューをします。 翌年発表したトップシングルの「クリープ」と完成度を高めた2ndアルバム「ベンズ」で人気を不動のものにし、その優れた楽曲センスとメンバー全員が高学歴ということもあって、知的かつ繊細なインテリバンドとして一目置かれた存在となります。 当初はどちらかと言うとブリットポップバンドとは距離を置いたオルタナ寄りのギターロックバンドで、プレイスタイルも比較的オーソドックスなものでしたが、作品の度に徐々に変化と進化を遂げて行き、この3rdアルバム「OKコンピューター」でプログレッシブな音楽性へと大きく方向転換をし、世界中のロック・リスナーを驚かせます。

一度聴いただけでは良くわからない少々難解な作品なので、その評価は大きく分かれるところではあるのですが、電子音楽とエフェクトさせたギターロックを組み合わせた音楽はかつてない特有の冷えきった浮揚感と危うさを漂わせ、聡明なるトム・ヨークの暗く美しい高音のボーカルとジョニー・グリーンウッドの神経質なギターによって奏でられる変拍子の不協和音は不気味なまでに悲しく胸に染み渡ります。 そして、果てしなくエモーショナルで実験的な彼らの音楽は90年代版プログレッシブ・ロックの金字塔として多くのロック・リスナーやミュージシャンから大絶賛され、レディオヘッドは混迷したロックの新しい時代を切り開いた救世主として大きくフィーチャーされます。

このテクノロジーを駆使した「OKコンピューター」は先進性を求め始めた時代に予想を超えるほどの反響を及ぼし、 多様化していく現代ロックの始まりと同時に大衆的な古典ロックの終わりを象徴する作品として、その後のロックにも大きな影響を与え、今でも色あせる事のない名盤としてロック史に燦然と輝き続けています。

 Music video by Radio Head performing Paranoid Android. (C) 1997 EMI Records

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パール・ジャム/Vs.(1993)

 

vs-pearl-jam_190年代のロックシーンを席巻したグランジを語る上で欠かすことの出来ないバンドの一つが、このパール・ジャムで、彼等は時代の狂騒と騒音に晒されながらも、粘り強く活動を続けることで、その存在価値を維持してきました。

グランジ発祥の地シアトルで、そのルーツを作ったとされる伝説的なバンド、グリーン・リヴァーのギタリストだったストーン・ゴッサードとベーシストのジェフ・アメンはポストHR/HMバンドを目指すべく、同バンドのパンク派メンバーと分裂をしパール・ジャムを結成します。 ストーンとジェフはシアトル出身ですが、サンディエゴ出身のエディ・ヴェダーを新しいボーカルとして迎えることでバンドは加速度的に覚醒をし、本格派のバンドへと成長していきます。

結成時のパール・ジャムはまだメタルの影響が色濃く残るスタイルで80年代的な商業バンドのイメージも否めない風貌でしたが、ヘヴィネスでありながらも骨太で馴染みやすいロックナンバーをストレートに聴かせる男根主義のサウンドで、まだ市場規模の小さかったシアトルでもスタジアム級のオーラを放っていきます。 ロック史上最高のボーカリストの一人と言っても過言ではないエディ・ヴェダーの振り絞るような歌声と、バンド全体が元々持つポテンシャルは極めて高く、1stアルバム「TEN」はメジャーデビュー作にも関わらず本国アメリカで800万枚を超える売上を記録します。

日本では何故かあまり人気の無かったパール・ジャムですが、アメリカではニルヴァーナに匹敵するほどの人気を誇り、なかでもX世代(冷めた世代)の心の叫びを代弁するエディは多くの若者達から支持され、パール・ジャムの音楽は時代のアンセムとして歌われるようになり絶大なる影響力を持つようになります。

しかし、シアトル発のバンドと言うだけで、パール・ジャムはニルヴァーナと同様にレコード会社にグランジバンドと勝手にマーケティングされてしまい、また、メディアによって過大広告されたシアトルはロックの聖地として世界規模のビジネスを生み出す音楽市場となり、アメリカの音楽チャートはグランジ・オルタナティブバンドが塗り替えてしまうという異常な事態となります。

パール・ジャムは巨大な成功に伴う様々な狂騒に耐えながらもダイナミズムを加えたハードロックの究極形とも言える2ndアルバム「Vs.」を作り上げます。 この作品によって彼等は完全にムーブメントの代表格となってしまいますが、この頃からバンドは反商業主義を掲げるようになり、メディアの露出も極力避け、アルバムからのシングルカットは拒み「ジェレミー」以降ミュージックビデオは一切作らず、チケットマスターとは手数料を巡って闘争をするなど徹底して業界に背を向け続けるようになります。

制御不能な状況に陥ったライバルのカート・コバーンは自殺というかたちでドロップアウトをしてしまい、一人取り残されたエディは誰よりもショックを受け絶望してしまいますが、時代の十字架を背負わされながらも真摯に音楽と向き合い、粘り強く活動を続ける事で混迷した90年代を乗り越え、ムーブメント終焉後、原点へと立ち返った彼等は本当の評価と支持を受けながら現在進行形でロックの伝説を築いています。

 Music video by Pearl Jam performing Jeremy. (C) 1993 Epic Records

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